よんだほん

本の内容をすぐ忘れちゃうので、記録しておくところです。アフィリエイトやってません。念のため。

自分のアタマで考えよう

自分のアタマで考えよう

自分のアタマで考えよう

  • 作者:ちきりん
  • 発売日: 2011/10/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 息抜き本シリーズ。論文と違って、平易な文章で読みやすいのです。。。

 自分はとにかく発想力が貧困だと思う。社会人になってから特に痛感する。なるべく様々な情報を広くつまむようにしているのだけれど、それではやっぱり発想力は伸びない。他の市町村ではこうやっているらしい、という知識が増えるばかり。こんな状態を改善したいと思い読んでみたのだ。

 今はなんでも調べられる時代である。ググればすぐに出てくる。そうなんだけれど、実際には「課題」「ビジネスチャンス」は、誰も答えを公開していないところにある。だから考える力がなければ、新しいことを生み出すことはできない。

 本書は、1つの考える方法のスキルをまとめた本である。色々な示唆に富んでいるが、私的ポイントは、大きく分ければこの3つ。
  ①「理由」と「だからどうなるのか」を考えるクセをつける
  ②自分なりの判断基準を持つ、そしてその判断基準はなるべくシンプルに
  ③思考のヌケモレを防ぐために、言語表現を図案化してみる
 
 また、考えを促すためにフレームワーク等の使用を勧めていた。このあたりはファシリテーション、ロジカルディスカッションにも近い。アタマでウンウン唸るよりも、整理しやすい。

 いずれにしても英語等と同じで、考えるクセをつけなければ(アタマを使わなければ)、なかなか発想力は手に入らない。本ばかり読んでいても仕方がないのだ、と自らを戒めておく。

ファシリテーション入門<第2版> 他

ファシリテーション入門〈第2版〉 (日経文庫)

ファシリテーション入門〈第2版〉 (日経文庫)

  • 作者:堀 公俊
  • 発売日: 2018/08/11
  • メディア: 新書

 まちづくりに関わる者として必須スキルだと思う。ところがその存在が、認知されているようでされていないようにも思う。VUCA社会である現代において、人々の意見は様々。まさに前エントリ「入門 公共政策学」における、総合性・相反性・主観性・動態性が作用するからだ。その中で、ファシリテーションにかかる期待は大きいと思う。

 私自身は、既に以下に紹介するような何冊かを拝読しているので、この本の内容全てに、真新しさを感じたわけではない。むしろ、一種の得意分野として息抜き的に読んでみようと思った次第である。なるほど新書として、簡潔にまとめられている。ファシリテーションについて知りたければまずこの本から読み、続いて以下の3冊に移行していくのが良いだろう。以下の本では、新書内では恐らく紙面の都合上紹介しきなかったのであろう図表など、視覚的な情報が、網羅的にまとめられている。

 ⇒ワークショップの企画立案方法 ⇒板書と板書を活用した、場面の促し方の技法
  ファシリテーション・・グラフィックは誰でもできるのでおすすめ。
ロジカル・ディスカッション (Facilitation skills)

ロジカル・ディスカッション (Facilitation skills)

 ⇒参加者に対する論理的なアプローチ方法
  この本が一番汎用性が高いが、一番むずかしい。 ⇒上記3冊を読んだあとに。ポケッタブルとして使える。 ⇒どんなフレームワークがあるかを学ぶときに。

 さて、本題の新書では、ファシリテーションには4つのスキルがあると述べられている。この4つの構造を理解することがファシリテーションがなんたるかを理解する第一歩として必要だ。
  ①場のデザインスキル
  ②対人スキル 
  ③構造化のスキル 
  ④合意形成のスキル

 多くのファシリテーションってなんとなく知っている、という人からすると、だいたい②や③の”会議・会合の現場における進行方法”というイメージで語られがちだが、それは一方で正しくない。会議・会合をどのように企画し、どのような人を集めるか(①)から既にファシリテーションは始まっている。話し合いの流れ全体をみるマクロな視点が必要なのである。

 私自身はずっと、ファシリテーターシップを人々が1%でも習得すれば、日本の話し合いは劇的に良くなるのではと思っている。カリスマファシリテーターが1人いたとしても、1億2000万人の対話を促せるわけではない。限界があるからである。ファシリテーションの多くは現場スキルであって、知っていてもやらなければ身につかない、場数がモノを言う。しかし、ファシリテーターのものの考え方を知っているだけでも、会議・会合の参加者1人ひとりのふるまい方が改善されるものだと思っている。


以下メモ
 ○社会系ファシリテーションに、正解はない。いかに合意の質と納得感を高めるかが重要。
  仲良しクラブでは成果がでない、厳しいマネジメントでは人が去る。
 ○日本の会議に蔓延る同調圧力と属人傾向をいかに排除できるか。
 ○苦手な相手でも「良い点を見つけてやろう」という視点で。
 ○意にそぐわない人を見ると、本人のやる気や性格の問題にしがちだが、本当にそうか?
 ○本当に大切なことは休憩時間に語られる。
 ○仮定質問・強制質問・リレー質問
 ○フレームワークを使った決定は、一見合理的のように思えるがそうでないパターンもある。
  バイアスを防ぐことはできないので、圧倒的評価差がでないときに機械的決定は危険。
 ○相手のメッセージだけではなく、ニーズを見つけるように努める。

入門 公共政策学  社会問題を解決する「新しい知」

 公共政策”学”とか政策”科学”というと、何やらロジックがあり、素晴らしい政策を生み出す公式が存在するかのようにも思えるが、残念ながらそんなことはない(注:この本がダメだということではないです)。そもそも政策は、複雑性の塊である。ある課題を取り上げるにしてもフレーミング、コンテキストで取るべき手段がかわる。そして取る手段が変われば、波及していく効果も変わっていく。さらにその効果は非常に目に見えにくい。また、仮に公式のようなものが存在したとすれば、必ず裏をかく人間が現れる。そこは政治の世界・人間の営みの世界だからである。

 さて、本書によれば、公共政策学は「inの知識」と「ofの知識」に大別される。「inの知識」とは、政策そのものに関連する知識である。少子化対策に対する、出生率の知識のようなものである。一方「ofの知識」は、政策がどのようなプロセスを経て形成・実施・評価されるかを分析する。思うに、多くの人々は自らの専門領域としてのinの知識は持っているが、ofの知識はそもそもイメージしたことがないのではないかと思う(私自身は恥ずかしながらそうだった)。本書では、主にofの知識を実例を交えながら紹介している。

 この本を読むことによって、うんうん確かにそうだと頷きながら読めるのは、公的セクターの人間に限られるかもしれない。それは、これまでなんとなく実務を担っていた「公共政策」という分野を一歩引いて俯瞰してみることができるからである。そう考えると、本書のサブタイトルは「社会問題を解決する「新しい知」」とあるが、公的セクターから縁遠い人には、その内容の活用イメージがつかず、難しいかもしれない。

 ただ、冒頭に述べたような政策の複雑性を理解することは、一種の政治リテラシーのように思える。多くの人が自らの立場で利害を主張することしかできない政策分析・政治から、対話型への政治に移行するためには、1つの必須知識と言えるだろう。その意味で、本書は入門書として非常に読みやすいものだと思う。


以下、メモとして。。。
○政策科学の困難さ
総合性・・政策は様々な問題が複合する
相反性・・政策はしばしば他の問題と対立する
主観性・・政策は立場や見方により異なった問題となる
動態性・・同じ政策であっても、その性質は日々変化する

○問題発見手法
コーザリティ分析とフィードバックループ・・因果関係を検討し、マップに落とし込む

○ポリシーミックスにおいては相乗効果を検討すること

○政策のロジックモデル
投入⇒活動⇒算出⇒成果

○政策立案の限界
VUCA社会において、審議会等の特定の専門領域に特化したクローズドな政策分析では、誤る可能性
⇒政策は、総合・相反・主観・動態性を持つものだから。⇒参加型をどう構築するか?

○メガポリシーの必要性
ミクロな政策の現場では、総合的な目的・目標であるメガポリシー(基本戦略)が、往々にして欠如
基本戦略の策定を。

スモール イズ ビューティフル

 EFシューマッハによる古典的な著作。原典の出版は1973年(※この日本語訳版は1986年に出版)なので、もはや半世紀近く前の評論だが、全編を通じて古さを感じない。むしろ現代人が現代社会を顧みつつ読むべき名著。著者の全編を通じた根本的な主張は、結びにあらわれている。

科学・技術の力の発達に夢中になって、現代人は資源を使い捨て、自然を壊す生産体制と人間を不具にするような社会を作り上げてしまった。富さえ増えれば、すべてがうまくいくと考えられた。カネは万能とされた。正義や調和や美や健康まで含めて、非物質的な価値はカネでは買えなくても、カネさえあればなしですませられるか、その償いはつくというわけである。富を手に入れることが、こうして現代の最高の目標となり、これに比べれば、他の目標はどれもこれも、依然として口先でこそ重んじられているものの、低い地位しか与えられていない。

 こうした主張を一見すると、訳者のあとがきにもあるように、社会主義的にもとられかねない彼の主張だが、全くそうではない(事実、浅い理解からそういう批判もあったようだ)。彼は、資本主義でもない、社会主義でもない新しい経済学を考えようとした。事実、本著の中で、企業の国営化のことを懐疑的にみているし、2つの対立軸(つまり資本主義と社会主義)はそれぞれ正しく、調和させる中道を探らなければならないと評している。この感覚は彼が単なる学者あるいは理想主義者ではなく、実務家であることを如実に表わしている。その思想の根本は、人類が人類らしく生きるにはどうすべきかを考え続けた、人類の幸せの追求にほかならない。そして幸せの追求にはカネは、必要条件ではないということを著したのである。

 本書は4部「現代世界」「資源」「第三世界」「組織と所有権」で構成される。特に前半2章は、少なくとも読むべき。現代経済学の不都合さを著した章である。西洋人である彼が、仏教経済学と題して、東洋経済学の思想をベースに語っている点が素晴らしい。印象に残った部分として(結びのくり返しにはなるが)、

  • 現代の経済学は、物事の価値をカネという面でしか判断していない。
  • 富を追い求めるのを目的とする生活態度(つまり唯物主義)は、自己抑制を欠いている。
  • 欲望が増すと、意のままに動かせない外部への依存が深まり、したがって、生存のための心配が増えてくる。
  • 人間の活動は、人間では再生不可能な資源(例えば石油・石炭等)に依存しているにも関わらず、その価値がないがしろにされている。
  • 適正規模の消費は、少ない消費で高い満足感を与える。
  • 物的資源には限りがあるのだから、自分の必要をわずかな資源で満たす人たちは、これをたくさん使う人たちよりも相争うことが少ない
  • 地域の必要に応じて、地域でとれる資源を使って生産を行うのが、もっとも合理的な経済生活。
  • 教育は、ただ科学を教えるだけではなく、どう生きるか(形而上学的な)考え方も伝えなければならない。人間は生きていくための思想は、科学からは生まれないから。
  • 人間が自然環境において支配を保とうとするならば、その行動を一定の自然法則に順応させなければならない。自然法則を出し抜こうとすれば、つねに自己を養ってくれる自然環境を破壊することになる。(神の最高の創造物である人間は「治める権利」を与えられたのであって、自然界に専制をふるい、破壊し、根絶する権利を授けられたのではない。)
  • 農業の基本原理と工業の基本原理は、両立しない。人間は工業なしでも生きられるが、農業なしでは生きられない。
  • 農業の役割は3点 ①人間と生きた自然界との結びつきを保つこと。②人間を取り巻く生存環境に人間味を与え、これを気高いものにすること。③まっとうな生活を営むのに必要な食料や原料を作り出すこと。

 などが挙げられる。

 「第三部 第三世界」については、「中間技術」という彼のコンセプトに関する紹介の章であるが、これは半世紀前の第三世界を題材にしているので、個人的印象としては、少し現代とは離れた前提条件で語られている(中間技術のコンセプトが悪いわけではない)と感じた。

 また「第四部 組織と所有権」については、少し理解しにくかった「私的所有で生まれる富が、すぐ私的に配分されてしまう」ことにどう対抗するか?ということを論じていたのかな。通常でいえば、公による再配分(要するに法人税)であるところ、彼は法人税をやめる代わりにむしろ大企業の50%の株を公が所有し、配当を受け取ってはどうかという提案をしていた。単なる国有化では中央集権的になってしまうからだと思う。こういった発想からも、前述のとおり彼が中道を探り続けていたということが見られるのかな、と感じた。

 最後に、少しだけ本論から外れるが、彼は、インドの失業問題に対して

「少しでも実行すれば、しないよりはましだ」とつぶやく愚かな人のほうが、いちばん有効な方法がなければなにごとにも手をつけようとしないお利口さんより、ずっと賢い。

 と述べているが、まさに、彼の実務家としての矜持が現れている。要するに「うだうだ考えてないで、さっさとやれることからやれ」ということなのだが、今どきたいていビジネス書で同じことが言われているわけで。まさか半世紀前の人にすら同じことで叱られてしまうとは。頭でっかちにならないように気をつけなければ。

公務員の人材流動化がこの国を劇的に変える―奇跡を起こす「5つの急所」

 研修でお世話になった山中先生の本。

 行政改革には、人事改革が必須だと思う。人材流動化は必須。人材流動化というのは労働の市場主義化ともいえるかもしれない。

 アフターコロナで、より個人のパーソナルな能力が試される時代だと思う。(本書自体は10年ほど前に執筆されたものであるので、執筆当時よりもすでに進んでいる部分もあると思うが)年功序列で、終身雇用なんて時代は、すでに言われているけどもう遅い。公務員もそう。生駒市なんかがいい例だ。採用パンフで終身雇用は保証しないと言っているし(すごい)、必要に応じて民間からプロフェッショナル人材の登用を行っている。どこの自治体もそうなるべきだと思う。ほぼプロパーという日本の公務員文化がおかしい。

 さて、公民間の人材流動化がもたらすメリットとして、本書に数ある主張のうち良いなと思ったのは、「官民の遠慮が減る」という点だ。

自分の会社の同僚が、元官僚であったり、元県庁職員だったりすると、役所との距離感は縮まります。

従来は、役所というとよくわからない世界だったのです。(中略)役所は、何となくよくわからないから、あまり関わらないようにしようという思考です。

 この話を聞いて思い浮かべたのは「市民と行政の相互信頼が高い」と「行政パフォーマンスが高くなる」というアメリカの社会学者パットナムの主張だ。

 本来政治というのは、国民1人1人のもののはず。高度経済成長期に、ナショナル・ミニマムを目指し肥大化する行政に対して国民が自治を丸投げし、公務員の閉じた世界観を構築しすぎたことが、絶望的な公民間の理解不足を生んでしまったと思う(私自身も「もっと役所の人って固い人だと思っていた」と言われたことが何度かある)。政策に対する感情的な批判を抑え、冷静かつロジカルな対話ができる関係を構築するには、相互理解が必要だ。もっとかんたんに言えば(むちゃくちゃに言うと)公は顔をさらけ出して、自信を持って、いろんな人たちと利害無視で友達になればいい。

 それから話が変わるが、私自身が思う公務員の弱みは、「自分自身はプレイヤーでない/プレイヤーとしての実績が無い」ことだと思う。どれだけ素晴らしい政策を作っても、結局やるのは民だったりする。民からすれば、「やったこともないやつが机上で考えた案をリスクを抱えてやるのは我々か。」となるに決まっている。そういう意味でも民間経験者の公への登用は必要だと思う。

人間の経済

人間の経済 (新潮新書)

人間の経済 (新潮新書)

 経済学者である宇沢弘文先生の本。著者のことを、これまで全く存じ挙げなかった(一応経済学部卒業なのだが・・・)。

 本書自体は、著者と編集者の間の長期にわたるインタビューの積み上げが基になっているものであり、その多くは著者の自伝ないしは回顧録といった内容である。すなわち、新しい視点、ロジックを説くような類のものではない。

 シカゴ大学等で教鞭をとってきた著者が、大学とはどうあるべきか、医療とはどうあるべきか、そしてミルトン・フリードマン市場原理主義に対する闘いを振り返っている。振り返りを通じて市場原理主義あるいはリバタリアンでもない、社会主義共産主義でもない著者の思想の一旦を覗くことができる。

 本題から逸れるが、本書で面白かった点としては、経済学者たちの人となりが描かれていることである。もっぱら我々が教科書で見るのは、例えばケインズがいて、彼はこういう思想だったというようなfactばかりであった。宇沢先生はまさにそんな教科書に出てくるような人々と、実際に語り合ってきた人であり、だからこそ描かれる、その経済学者たちの人となり(もちろん宇沢先生から見た)がよく分かる。

 さて、本題の宇沢先生の唯一にして最大の主張は、

大切なものは決してお金に換えてはいけない

に尽きると思う。その主張と正反対が、ミルトン・フリードマン市場原理主義である。

市場原理主義は、あらゆるものをお金に換えようとします

人間の心やそれぞれの境涯への配慮もない、ただもうかるかどうかを機械的に計算する、一種のコンピューターのようなものです。

と断じている。

そして、この思想が蔓延した結果、現代の若者たちについて

学生たちは人間が本来持つべき理性、知性、そして感性まで失い、人生最大の目的はひたすら儲けることだという、まさに餓鬼道に堕ちてしまった

とまで評している。

 このあたりの主張は、未読だが宇沢先生の「社会的共通資本」に書かれているものと思うので、近日中に入手したいと思う。

 この先生の本を読むと、学部時代のゼミ教授が、しきりにグローバリズムはダメなんだと言っていたことを思い出す。ただ、当時の自分はその理由が全く理解できなかった。自由な交易は人々を豊かにするに決まっているだろうと思っていた。ところが、社会に入ってマネーでは表現できない価値が世の中にはあることを実感した。決定付けたのは豊森なりわい塾である。宇沢先生のことはこの塾の中で知った。

 経済学というのは、決して金儲けの学問ではなく、人類が幸福たらしめるためにどうすれば良いのかを探求する学問であることを改めて痛感させられた1冊だった。

事実はなぜ人の意見を変えられないのかー説得力と影響力の科学

 原題は「The influential mind」ということなので、直訳的には「影響力の科学」といったところでしょうか。

 イギリスの認知神経科学者である著者が、実際に行われた研究結果に、身近なストーリーや、著者自身の体験を交えて分かりやすく紹介している。著者によれば、事実(データ、エビデンス)を元にした他人へのアプローチは、相手の感情や意欲を無視しているため、伝わらないとしている。相手にアプローチするために重視すべき7つの視点が紹介されている。

(以下本書から抜粋しつつ要約・加筆・修正しています)
(1)事前の信念
 事実は、自身の先入観を裏付ける証拠なら即座に受け入れるが、反対の意見はそうではない。自分自身の意見を裏付けるデータばかり求める「確証バイアス」があるから。また、情報は人知れずふるいにかけられている。昨今インターネット検索は、個人の趣向により自動的にカスタマイズされているため、自分の見解を支持する情報はすぐ見つかる。ということで情報が溢れる現代社会は、特にその傾向が顕著になっている。事前の信念に対しては、相手の誤りを証明することよりも、相手と共通点に基づいて話をすることが有効。例えば、ワクチンには悪影響があるから受けたくないという人に対して、その誤りを指摘することよりも、ワクチンが多くの病気に対して効果的であることを示すことが良い。 
(2)感情
 感情は、個人的なものと思いがちだが、それは間違いで他人に伝染する性質がある。アイディアを伝えるには、相手と気持ちを共有することが有効。自分の気持を表現することによって他人の心の状態を変容させ、それによって目の前にいる人の視点を自分の視点に近づけやすくする効果がある。
(3)インセンティブ
 誰かに行動してほしい場合は、罰を与えると脅して苦痛を暗示させるよりも、報酬(インセンティブ)を約束して喜びを予期させるほうがうまくいく。私たちは自分のプラスになると信じる人間、もの、出来事に接近し、マイナスになると信じる人間、もの、出来事を回避する「接近と回避の法則」があるから。一方、行動してほしくない場合は、報酬よりも罰を警告するほうが有効。恐怖や不安は、多くの場合人を行動に駆り立てるよりも、退かせたり、凍りつかせたり、放棄させたりするものだから。
(4)主体性
 人は、自分のいる環境をコントロールする能力が奪われると、ストレスや不安を感じる傾向にある。人は選択できる状況(コントロール感)を望む。だからコントロールを委ねること、もしくはコントロールしている気持ちにさせることは、最終的には人を行動させるうえで有効。他人に影響を与えるためには、コントロールしたいという衝動を押さえ込み、相手が主体性を必要としているのを理解する必要がある。例えば税金が他の支出よりも耐え難いのは、使いみちに選択の余地がないから。寄付するかどうかは自分で決められるのに、税については自由がない。
 なお、コントロール感は、客観的事実としてそういう状態であるということよりも相手がそうコントロール感があると認識しているかのほうが重要。
(5)好奇心
 人は基本的にはポジティブな意見を求め、ネガティブな意見を回避する傾向にある。暗い見通しは、多くの人が聞いてくれない可能性が高い。発した情報が恐怖ではなく、希望を導き出すようポジティブな可能性を強調したメッセージに再構成したほうが有効。
(6)心の状態
 ストレス下では、リラックスしているときよりずっとネガティブな意見を取り入れる傾向が強い。心の状態により、思考、決断、相互関係がガラリと変わることもある。ある意見が伝わらなくても時と場所を変えれば効果的になる可能性がある。
(7)他人
 生物には他人の行動を認識して模倣する「社会的学習」という性質がある。人間の脳は社会との関わりから知識を獲得するように設計されていて、影響は人から人へと伝染する。
本能的に他人の選択を真似るのは、自分が持ち合わせていない情報を持っていると思うから。しかし他人の判断は、こちらの状況とは関係ない考えに基づいているかもしれないので、誰かの判断に追従する場合は、注意が必要。


 新型コロナウイルス感染症のことを例にとってみても、「8割の接触減」(が理論的に正しいとして)に人々が従うかどうかはまた別の話だということが上記の7項目から見て取れる。その他に、ファシリテーターとしてのふるまい方、子どもの教育、上司部下の関係性など、様々な場面で応用の効く内容であると感じた。

 なお、終章には、未来を考察するというテーマであった。例えば脳が生み出す神経パルスを他者へ伝えることで、五感を使わずに相手に影響を与えるという実験のようす等が紹介されていた。まとめとして筆者は「私を形づくるのは私の脳である」という主張をしているのを見て、ああこれはまさに西洋的唯物論だなあと感じ、少しだけモヤのかかった読後感を味わった。

持続可能な地域のつくり方――未来を育む「人と経済の生態系」のデザイン

持続可能な地域のつくり方――未来を育む「人と経済の生態系」のデザイン

持続可能な地域のつくり方――未来を育む「人と経済の生態系」のデザイン

  • 作者:筧裕介
  • 発売日: 2019/05/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 非常に良い本だった。これまで住民参加型の地域づくりに関わる中、様々な場面で得てきた断片的なピースを一本串を差して整理整頓していただいたような、そんな爽快感があった。

 本書は全ての基礎自治体の職員が読むべき教科書的な本と言っても過言ではないと思う。その理由は2点。1つはSDGsと地域づくりとの関係性が整理されていること。SDGsは目標年度まであと10年を切っている。にも関わらず、自治体職員にもSDGsはまだまだ身近な、自身に関連する存在になっていない。本書の具体的な事例をもって、SDGsとはまさにローカルな身近な地域づくりであるということが理解できる。もう1点は、コミュニティの弱体化があらゆる課題の要因であることをSDGsのロジックで解説している点。本文に指摘のあるとおり、あらゆる課題の要因にコミュニティの希薄化が関係している。コミュニティ施策は基礎自治体にとって第一の目的・目標に掲げられるべき課題であることが理解できる。

 地域は生命体と同じく常にその構成要素は流動するというのが本質である。排他的な地域は代謝が進まない。代謝が進まないということは腐っていく、持続可能ではないということだ。本書では、4つの「生体環境」という表現で、持続可能な地域を実現するために必要な取組が紹介されている。

  ①地域の様々な立場の人々が対話、協働する力を持ったコミュニティづくり
  ②地域で暮らす人がチャレンジできる環境であること
  ③地域コミュニティの次世代を教育すること
  ④地域を未来をうつしだす未来ビジョン(計画)づくり

 いずれにおいても、先般読み終えた「SDGs時代のパートナーシップ」と関連し、人々の協力関係が新たな価値を生み出すこと、あるいはその協力関係そのものが、マネーに代えられない価値であること(後述)であることをを示している。さらに4点の紹介と、あわせて参加・協働・共創を生み出すためのスキルが6つ紹介されており、その全てが実践的かつ基礎知識としてマスターすべきものと感じた。

  技術1 地図を書く技術
  技術2 対話の場をつくり技術
  技術3 声を聴く技術
  技術4 未来を表現する技術
  技術5 問いをたてる技術
  技術6 発想する技術

 終章には、現在の貨幣資本主義に依存しない生活がなぜ、依存する生活よりも豊かであるかが論じられている。この世には、マネーで買えない価値があるはずなのだが、マネーだけで一見不自由のない暮らしが実現されており、その事実が忘却されている(今私は東京に暮らしているのだが、よりそのことを実感する)。現代は、お金で買えない「信用」「信頼」「協働」の価値が少しずつ見直されはじめている。
 労働に関してもただマネーを得るためだけに時間を切り売りしているという感覚では、全く面白みがなく、継続性もない。この先大きな経済成長を見込めない我が国では、むしろ生産性や効率性を高めることよりも、いかに「社会に役立ったか」等を価値として享受すべきだと改めて強く感じた。

 以下アイディアとして・・・地域課題をSDGsイシューマップにマッピングする手法を、自治体内部の総合計画や事業計画に取り込んではどうか。本書で指摘のあるとおり、現実の課題は相互に関連しあっており、実は組織の縦割りで本質的に解決できる課題は少ない。自治体職員は幅広な視野を持って業務にあたる必要があるが、縦割りの壁に阻まれている。本来縦割り間の連携は、特別職、あるいは局・部長級の幹部が対応すべきことだとは思う。しかし実際はうまくいっていないケースばかりだと思う。そんな縦割りを打破する取組として、ボトムの職員レベルから、課題を包括的に把握するしくみを作ってはどうか。
 終章でも例示されていたが、「分業」は、確かにアウトプット量は効率化され、生産量は増えるかもしれない。しかしながら、働いている労働者は、分業された工程がなんのための業務かわからず、働いているかを見失いやすい。管理者側の工程全体把握のみではうまく機能しないのならば、ボトムの職員の時点で全体把握を仕組み化させたほうが、よっぽど組織の横連携がうまくいくのではないかと考える。

しょぼい起業で生きていく

しょぼい起業で生きていく

しょぼい起業で生きていく

タイトルだけで買ってみた本。

”しょぼい”という言葉遣いに疑問符がつく。とてもしょぼくなんてない。しっかりと考え抜かれていると思う。Amazonのレビューにもあったけれど「低リスクの起業術」のほうがよっぽどタイトルに沿っていると思うのだが・・・。
また、どこかこの筆者ならではのカリスマ性を感じて、全体と通じて果たしてこの”しょぼい”起業術なら誰でも生きていけるかは、最後まで確信的には思えなかった。後述する信用をつくるという考え方なんて当たり前なんだけれど、その信用をもって人を動かせる人というのはそう多くないと思うんですよ。少なくとも誰でもできることじゃない。あとがきに書かれているようなこういう生き方もありますよ、ということなら、もう少しそのあたりを深堀りしてほしかった。起業術を伝えたいのか、処世術を伝えたいのか。

ただまあ、繰り返し述べられているところの、信用構築であったり、悩むならやろうよ、というところは、木下斉さんの「稼ぐまちが地方を変える」や「地域再生入門」あたりと全く同じ主張であるので、そのとおりだと思う。

地元がヤバい…と思ったら読む 凡人のための地域再生入門

地元がヤバい…と思ったら読む 凡人のための地域再生入門

  • 作者:木下 斉
  • 発売日: 2018/11/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

以下その他参考になったかな、あるいは疑問だな、という点。

・生活の資本化などは、農的な自給自足の暮らしと同じことであって、それの都市部版といったところか。
・正しいやりがい搾取という考え方は、行政マンとして考える必要がある項目だと感じた。行政が市民にお願いしていることって、まちがいなく、やりがい搾取でしかない。具体的にいえば、自治会とか。正しいやりがい搾取をするためには=自主性、自発性を発揮させるためには、ノンストレスな、居心地の良い環境をつくることが必要なのだけれど、これがたぶん難しい。特に地域となるとステークホルダー間のギャップが激しすぎる(例えば関係者の年代層とか)。
・信用が出資を生むという考え方はそうなんだけれど、民間だと確かに「信用できるかどうか」というある意味属人的あいまいな考え方でいい。じゃあ行政が出資する場合はどうすればよいのか?担当者がこの人いいと思ったから!ではすまない。どうしても数字等の評価項目を用意しなければならない。どうすればいいのだろうか?

SDGs時代のパートナーシップ:成熟したシェア社会における力を持ち寄る協働へ

何度かお世話になっている川北秀人さんが編集に関わっている本。
前半の内容がもはやすでにうろ覚え。言い訳だけれど、子どもが生まれてからなかなか本と向き合う時間がとれなくて、読み終えるのにかなり時間がかかってしまった。


 本書で繰り返し強く述べられているのは、「SDGsを達成するためにはパートナーシップが不可欠である」ということ。このパートナーシップというのは、行政界隈ではいわゆる協働と呼ばれている。そしてパートナーシップ自体の定義はかなり広い。本書内で紹介される各種事例も様々なパートナーシップのあり方であり、その姿は一様ではない。パートナーシップの定義をあえて私自分の言葉に言い換えて記しておくと、「人や人、組織や組織など、立場、役割、得意分野の異なる様々なセクターが、自らの得意分野を持ち寄って1つのゴールに向かう」といったところか。

 現代社会は、予測不可能、不確実な社会であり(=VUCA)、何が起こるかわからない。新型コロナウイルス感染症も、あれよあれよという間にパンデミック扱いになってしまった。本書内でも確か記述があったと思うけれどダーウィンの言葉で「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である。」というものがある。予測不可能な出来事に変化(対応)できる者、地域、あるいは組織が、サスティナブルなのだと理解できた。

 そして変化を生み出すためにはパートナーシップを軸とした異なるセクター同士の学び合いが必要なのだとも理解できた。予測不可能な社会において、おそらく誰一人正解など持ち得ていない。あるのは「比較してうまくいっているものかそうでないものか」なのではないか。そうだとするならば、お互いの知見を持ち寄ったほうがよりよいものができるに決まっている。そしてその際重要なのは、失敗や取組レベルの高低を責めない社会であることだ。チャレンジできるものを大切にする人や地域が、変化し、生き残るのだと思う。別記事になるが、イノベーションを引き起こすためには、失敗を奨励するという考え方もある。
dentsu-ho.com


本書に対して大いに賛同した上で、思ったことを記しておくと

(1)失敗できない行政が生み出す価値とは
 よく行政は失敗できないと言われる。失敗すればマスコミから散々に叩かれる。そのことが行政セクターのイノベーションを阻害しているんじゃないかと思うことがある。別に市民の皆さんもっと行政のことを優しく見守るべきでしょ、甘えさえろという話ではなく、緊張感のある関係性が築かれていない。行政のチャレンジが仮に失敗したとして、もちろんアカウンタビリティを果たした上で、よりよくするにはという視点の議論をセットにした、緊張感と建設的な要素を併せ持つ関係性。自身のまちをよりよくしたければこのパートナーシップを形成しなければならないのでは。

(2)パートナーシップの調整コストというネガティブ意見にどう対応するか
 パートナーシップの形成には、目的目標のすり合わせ、各セクターの利害等が絡み、単独セクターで物事に当たる場合に比べて事態が複雑化する。各セクターは、確実に成就するかわからない協働の調整に、なかなか時間や資本を割くことができないというのが実情では。本書内にあった行政のNPO等に対する協働という名の下請け発注も、そういった側面はないか。行政が仕様書として発注するほうが、調整コストが圧倒的に少なく、品質に一律性を担保できるのではないか(あるいはそう思われていないか)。パートナーシップ調整コストと、パートナーシップがもたらすSDGsへの効果とを対比したとき、それでも後者に注力すべきと訴えるポイントはあるか。(自分が訴えたいのだが、そのポイントが分からない。)

(3)学び合いのプロセス構築に、しくみだけでアプローチできないのか。
 各セクターのマインドにかなり依るところがないか。本書の事例にもあるとおり、長期間の信頼構築などがパートナーシップ形成に繋がったものも多い。自分自身が、情報共有会等を企画運営しても、前向きに学ぶ方は学ぶし、学ばない方はどこまでいっても学ばないのではないかと思える。後者の人々にどのようにアプローチしていくべきか。

マーケットでまちを変える: 人が集まる公共空間のつくり方

マーケットでまちを変える: 人が集まる公共空間のつくり方

マーケットでまちを変える: 人が集まる公共空間のつくり方

公共空間のあり方を考えるための参考図書再び。

 マーケットは、海外では当たり前・日常の存在。豊田でもマーケットをやってるけど、イベント感が強いようにも思える。よく考えてみれば、台湾の夜市だとかも公共空間を利用したマーケットなのだけれど、どうも毛色が違うように思う。海外で行われているのは「日常の営み」。

 日本では、マーケットがこれまでになかったかといえば、いわゆる「市」が開催されていた。日本全国の至るところに地名として残っているのが証左。しかし現代の日本では、いつの間にやら公共空間を占拠することが、基本的には良くないことだという価値観になっているように思う。というか僕は、公共空間が交通優先になってしまっているのは、ぶっちゃけ警察が真面目すぎるのが悪いと思う。例えばロンドンでは、所謂警察協議は難航しないらしい。それはなぜかというと警察権が市長権限に下に置かれているからだそう。行政と警察が一緒になってていいのというギモンが湧くけれど、素直に羨ましい。

 さて、マーケットの効果が本書では15ほど挙げられているけれど、個人的なフィルターをかけると以下の8つぐらいになった。

【マーケットの効果や機能】
 ①公共空間の利活用によるエリア資産価値の向上
 ②生産者と消費者間の直接的なコミュニケーション(特にファーマーズ系)の形成
 ③地域住民間のコミュニティ形成
 ④出店者同士によるコミュニティ形成、コラボレーションによるイノベーションの創出
 ⑤(場所やマーケットの性質にもよるが)生鮮食品等の販売による地域住民の生活インフラとしての機能
 ⑥地域経済の循環
 ⑦近隣店舗への相乗効果
 ⑧非日常感の創出で何より楽しい!
 

また、本書の後半はマーケットの具体的な作り方のノウハウがまとめられている。

 コンセプト設定や、仲間の集め方は、いわゆる市民活動畑でどこでも口酸っぱく言われていることが本書でも述べられている。具体的には「楽しいこと」「負担のないこと」。さらに筆者は、それを一言で「参加するその人にとって心地よいか」という表現を使っていたが、これはかなり自分の中で腹落ちした。負担がないというのは、仕事の量が少ないとか、関わり方が少ないとかそういうことではなくて、その人にとって良いレベル感=心地よいかどうか。当然自分は、人によって求めている参加の度合い(レベル感)が異なるということは理解していたが、この表現(心地よい)が今の自分の中ではかなり正解に近い。

 それから、出店者集めの際には、出店者の数にこだわるのではなく、コンセプトにあった出店者かどうかにこだわったほうが良いというのも、当然といえば当然だが、確かにと思わされた。「小さくはじめて大きく育てていく」ことがマーケット運営にも求められる。そのためには、マーケットのコンセプトがぶれないような設定にしなければならない。

 最後に空間の設定。ただ単に出店者をざっぱに並べれば良いというのではなく、導線等を意識して「心地よい」「コミュニケーションが誘発される」空間を設定しなければ、続けられるマーケットに育たない。確かに、空間が心地よいところはいつまででも居たいと思わされる。ラグビー期間に駅前でやっていた豊田市のマーケットイベント|STREET & PARK MARKET、2週見て回っちゃったもんね。


 本書を通じて、小さくはじめて大きな効果が期待できるマーケットという手法は、公共空間利用における最強ツールの1つであると強く感じた。

知がめぐり、人がつながる場のデザイン―働く大人が学び続ける”ラーニングバー”というしくみ

 立教大学中原教授の本(執筆当時は東大ですね)。ラーニングバーというパッケージを例にしつつ、「知がめぐる」「人がつながる」「対話がおこる」場をデザインするためのコツがまとめられている。

 なぜ大人の学びが必要なのか?という問いに対して、筆者は「自身の中で固定化された(組織に染められた)考え方・やり方を打破し、変化を起こす(アンラーン)できる人材」が求められていると答えている(※10年前の本!)。そして、ラーニングバーというシステムは、対話を通じて、他人との違いが明確に現れるような場のデザインが描かれている。普通”違い”があると、人間多少なりともストレスを感じるところなのだけれど、そこはバーという名前のとおり、飲食物やBGM等が効果的に使用されることで、その心理的障壁を下げているところがミソだと思う。

 そして、本書終盤には「自分の日常は、他人の驚きであり、他人の日常は自分の驚きである」という記述がある。これは、自分がこれまで仕事として企画してきた所謂「情報交換会」だとか「交流会」等と呼ばれる会合のコンセプトの部分だったり、あるいは会のルールとして設定してきたことと、全く同じ考えたった。つまり、自分が感じていたこと・考えていたことは間違いではなかったのだなと自信が持てた。

 一方で自分が企画する情報交換会しかり、交流会しかりにあるのが「モヤモヤ感」問題。つまり「情報交換」をしても、他人との違いが見えるだけで、解答はない=だから、意味ないじゃんと感じている層に、どうこういった学びの場を訴求すれば良いのか。ラーニングバーのように、参加者全てが能動的な人々、つまり、得た情報を自分ごとに落とし込める人ならばいいのだけれど。自分が企画するものは半ば強制的に・・・というものも多い。
 ①めちゃくちゃ質の良いコンテンツを用意するのか。
 ②「自分の日常は、他人にとっての驚きである」というコンセプトを強く訴えていくのか。
 ③何らかのまとめ(ラップアップ)をファシリテーター的な存在がしなければならないのか。
  etc・・・
 おそらくラーニングバーの場合は、③も一部あるけれど、なによりもまず①があって、それがSNSを通じて口コミで広がっているのが大きい。だからまずもって能動的な人しか集まっていない。筆者も本文中で語っているとおり、学びの場は茶道と同じく、プロデューサー側だけが作るものではなくて、参加者を含めたその場にいる人全員が作るものなのだ。①があって→質の高い参加者が集まって→より①になってというサイクルなんじゃないだろうか。

 あまり結論はでない(やっぱりモヤモヤ)が、ただ今後も「場づくり」を行う上で、ラーニングバーのノウハウも役に立つ部分が多かった。
 
 繰り返しになるけれど、「アイデアは既存の要素の新しい組み合わせ」なんて言葉もあるように、人と人の考え方同士がミックスされていくことが新しい発想やイノベーションにつながるものだと、信じてやっていきたいと思えた。

ローカルエコノミーのつくり方:ミッドサイズの都市から変わる仕事と経済のしくみ

 神戸市内で取り組まれているスモールビジネス事例を紹介本。本書では、従来の大量生産消費経済を、「ノウハウもお金も中央(大都市)に集中し、ローカルは単に製造・下請けの拠点となる」と表現している。ローカルにノウハウやお金を残す仕組みにする(ローカルで経済を回す)ことが、これからのまちの持続可能性(SDGs)に必要不可欠なのは間違いない。顔の見える経済をつくるための取組が6つの切り口(業種)から事例が紹介されている。

 最も気になったのは第1章で紹介されている「EAT LOCAL KOBE」の取組。都市と農山村の農業を結びつけるマーケット。これは非常に良いと思った。神戸市は、30分ほど自動車を走らせれば、農村地域があり、都市圏(三ノ宮周辺)と非常に近い「ミッドサイズ・シティ」であることが、非常に良い相乗効果を産んでいると本書では語られている。この条件って、豊田でも全く同じなのではないだろうか。豊田でも可能性はないだろうか。

 いま通っている「豊森なりわい塾」でレクチャーされた概念に「身土不二https://www.ishes.org/keywords/2013/kwd_id001107.html」というものがある。「その土地のものを食べるべき」という教えなんだけれど、現状はなかなか自分も実践できていない。一応なるべくスーパーで地元産を買うようにしているが、生産者の顔が見えているわけではない。思い返すと、以前塾のフィールドワークでお邪魔した田舎のおばあちゃんにもらったナスはめちゃくちゃおいしかった。本当にうまかったのもあるが、この作った人の顔が目に浮かぶことが1つの要因としてあるのだと思う。

 この「田舎ナス」のおいしさをもっと多くの人にシェアできないかと最近思いはじめた。「公共R不動産」の話と組み合わせ、もっと有休公有地で、中山間地で育てられたファーマーズマーケット的なものを頻繁に開催するようにできないだろうか。

shibadog-john.hatenablog.com

 生産者の顔や、畑の様子が手にとるように見える化して、都市部の人々と中山間地域結びつけ、農産物をシェアできる可能性づくりを試みることはできないだろうか。また、ただマーケット的に野菜を販売するだけでなく、CSAhttps://agri.mynavi.jp/2018_10_01_41429/の仕組みを構築した上で、CSA申し込み窓口をマーケットの場で兼ねてみても面白いかもしれない。

シェアをデザインする 変わるコミュニティ、ビジネス、クリエイションの現場

シェアをデザインする: 変わるコミュニティ、ビジネス、クリエイションの現場

シェアをデザインする: 変わるコミュニティ、ビジネス、クリエイションの現場

 「シェア」に着目して、様々な実践者が自身の活動をベースに語る一冊(少し古い本ですね)。本文で語られているのは、空間的な(アーキテクチャー的な)シェアに限らない。また、基本対談形式の本なので、分かりやすく結論が書かれている本ではない。またシェアという概念が広く、なかなか一様に語れない(というか僕の理解が追いついていない)。というわけで、この記事は非常にまとまりがないです。

 シェアハウスだったり、コワーキングスペースだったりと「ゆるやかなつながり」が着目されて久しいこのごろ。この価値観、僕自身もそのとおりと思っています(今のところシェア的な活動はあんまりしてないけど)。これからの社会のエコシステムを再構築する上で、もっと広まるべき考え方だと思う。

改めての気づきとして・・・(※下線は本文で語られていたこと)

●結局なにゆえ、今シェアが着目されているのか?
①モノの溢れが当然になっている現代において、所有に対するインセンティブが減っていること。
②インターネットの発達によって、情報のシェアに関するコストが格段に安くなったこと。
③都市と郊外、家庭と仕事などの分業体制に対する違和感が顕在化しはじめたこと
(社会の変化による流動化の進行)。固定化された人生のカタチから、流動化へ。

●シェアが生む力とは何か
 人と人との共鳴や、共振を生む力がある。例えば僕が仕事で行う古典的なワークショップも、ありとあらゆる人間がフラットな関係で集まって、対立ではなく対話によって、イノベーション創発)が起きている。対立は全くイノベーションを起こさないといっても過言ではない。ただし、シェアは信頼によって成り立つとも語られていて、信頼がイノベーションを起こすことが本文ではたくさん語られている。では、信頼の形成のためには何が必要なのだろう?例えば、これもまた本文で語られているようにプロセス自体をオープン(シェア)することなのだろうか。
 あるいは、シェアをしようとすると、必ずきっと誰かが抜け駆けのようなことをすると思う(=利己的ビジネス化的な)。それが起きないシェアを広めるためにはどうすれば良いのか?僕自身は、世のあらゆるプレイヤーが「利他的に稼ぐ」ことをするようになれば、世の中めちゃくちゃよくなるんじゃないかと思っているんだけれど。果たして実現可能性ありますか?

●公共は究極のシェア
 パブリックは公”共”というだけあって、シェアの体系の一つ。ただ、現状のパブリックは、むしろシェアのような曖昧さを許されない環境になっている。でも公共って本当はグラデーショナルであって、全ての公共が万人のためではくて、使用者が限定される公共だってあり得ると語られている。行政のマーケットイン思考のなさを指摘されているように思えて、恥ずかしい。
 また行政は企業と違って破綻のリスクがないから、実験的取組に適した組織だと思うと本文では語られているけれど、全くそのとおりだと思う。今のスピード感のある社会についていくには、失敗をしながら(プロセスを民とシェアしながら?)適宜修正していくほうが正しい姿だと思う。むしろ完成版を提供してしまうと、修正の余地がなくなるのではないか。そうなると完成版が誤りだったとき、取り返しがつかない。
 だけど自分を含めてまだ多くの行政マンは、公務員に対する空気を恐れている。行政の失敗を喜んで叩く人間がいることが、パブリックにおけるイノベーションを封じ込めているんじゃないかと感じる。失敗が許される社会になれば、これまた世の中めちゃくちゃよくなるんじゃないか。しかし果たして、おカタイ行政において、どこまで曖昧さを設けられるのかは、これからの課題。また、なんでも曖昧にしていいわけではなくて、曖昧にしていいものとそうでないものを見極めないといけないから難しい。
 
 概念的な部分から、じゃあ実務に戻って行政の役割って何かと考えてみると、基本的にはやはり行政の役割は”緩和すること”なんだろうなと思います。民に自由に曖昧にやってもらっていいことはどんどん緩和すればいい。
 
 そういえば、自治会町内会だって、準公共と言われるぐらいだから、シェアのような気がする。にも関わらず本文で指摘されているように、地方の実的なコミュニティはいかに流動化するかというよりも、いかに保存するか、維持するかという文脈で語られがち。自治会町内会だって、流動化したほうがいい。乗り降り自由のコミュニティを形成したほうがイノベーションが起きて絶対よくなる。既存のカタチにはめ込もうとするから、うまくいかないんじゃないかと思います。



いろいろと思いつきで書きなぐりましたので、全くまとまりがありませんでした。

ひとまずの結論としてストック余りの現代において、新築の購入は絶対に悪手だとしか思えないので、いい中古物件あったら紹介してください。お待ちしています。

公務員版 悪魔の辞典

公務員版 悪魔の辞典

公務員版 悪魔の辞典

 娯楽本。あんまり頭を使わないで読める。辞典とあるが、新人職員よりも、一定程度以上の経験のある職員のほうがよりクスリとできる内容。

 個人的には「待機児童」の項が面白かった。

 本のコンセプトはめちゃくちゃ好き。だけどなんとなく本文のセンスが全体的に親父ギャグに寄っているのが目につく。それから「~あるとか、ないとか」だったり「~することもある」等のという(ある種公務員的な笑)断定しない表現が散見されたけれど、こういった本ならばあえて誤解を恐れずに断定系で書いたほうが面白いと感じた。