- 作者:宇沢 弘文
- 発売日: 2017/04/14
- メディア: 新書
経済学者である宇沢弘文先生の本。著者のことを、これまで全く存じ挙げなかった(一応経済学部卒業なのだが・・・)。
本書自体は、著者と編集者の間の長期にわたるインタビューの積み上げが基になっているものであり、その多くは著者の自伝ないしは回顧録といった内容である。すなわち、新しい視点、ロジックを説くような類のものではない。
シカゴ大学等で教鞭をとってきた著者が、大学とはどうあるべきか、医療とはどうあるべきか、そしてミルトン・フリードマンの市場原理主義に対する闘いを振り返っている。振り返りを通じて市場原理主義あるいはリバタリアンでもない、社会主義・共産主義でもない著者の思想の一旦を覗くことができる。
本題から逸れるが、本書で面白かった点としては、経済学者たちの人となりが描かれていることである。もっぱら我々が教科書で見るのは、例えばケインズがいて、彼はこういう思想だったというようなfactばかりであった。宇沢先生はまさにそんな教科書に出てくるような人々と、実際に語り合ってきた人であり、だからこそ描かれる、その経済学者たちの人となり(もちろん宇沢先生から見た)がよく分かる。
さて、本題の宇沢先生の唯一にして最大の主張は、
大切なものは決してお金に換えてはいけない
に尽きると思う。その主張と正反対が、ミルトン・フリードマンの市場原理主義である。
市場原理主義は、あらゆるものをお金に換えようとします
人間の心やそれぞれの境涯への配慮もない、ただもうかるかどうかを機械的に計算する、一種のコンピューターのようなものです。
と断じている。
そして、この思想が蔓延した結果、現代の若者たちについて
学生たちは人間が本来持つべき理性、知性、そして感性まで失い、人生最大の目的はひたすら儲けることだという、まさに餓鬼道に堕ちてしまった
とまで評している。
このあたりの主張は、未読だが宇沢先生の「社会的共通資本」に書かれているものと思うので、近日中に入手したいと思う。
この先生の本を読むと、学部時代のゼミ教授が、しきりにグローバリズムはダメなんだと言っていたことを思い出す。ただ、当時の自分はその理由が全く理解できなかった。自由な交易は人々を豊かにするに決まっているだろうと思っていた。ところが、社会に入ってマネーでは表現できない価値が世の中にはあることを実感した。決定付けたのは豊森なりわい塾である。宇沢先生のことはこの塾の中で知った。
経済学というのは、決して金儲けの学問ではなく、人類が幸福たらしめるためにどうすれば良いのかを探求する学問であることを改めて痛感させられた1冊だった。